愛のカラー

マイケル・ロイ

国がちがっても
肌の色がちがっても
子供たちはともに遊び、
誰もが手を取りあって助けあう世界
そんな世界に私は住みたい

戦争、民族紛争、人種差別、暴力がうずまいているのに、「誰もが手を取りあって助けあう世界」なんて夢物語だと感じるでしょうか。あるいはこの世界の状況に心を痛め、どうしたら平和な世界が築けるだろう、と考えていますか。

ここ数年、ユーゴスラビアの「民族浄化」、ルワンダの住民虐殺、中東での流血事件など、悲しい事件が続いています。日本人にとっては、少々理解しがたいところもありますが、こういった事件は、人種または民族の対立による深い憎悪や敵意が原因です。これは、私たち人類が大きな問題を抱えているという証拠です。

では、「世界中の人間は、国籍や人種、宗教、過去の歴史にかかわらず、すべての人を尊重し、受け入れること」という法律が全世界で定められたら、問題は解決するでしょうか? さて、仮にそれが実現しても、その効果のほどは疑問です。思いやりや親切、寛容さは、心から出てくるものであって、法律で強制することはできないからです。

特に、何年も、あるいは何世紀も、自分たちを人種的、民族的、あるいは宗教的に差別したり、虐待し、搾取し、迫害してきた国民や民族を寛容に受け入れるのは、かなり難しいことでしょう。また自分たちの人種や宗教や文化が他よりも優れていると、子供の頃から教えられていると、平等に愛し、尊重するというのは大変です。

愛する家族を失ったり、長年住み慣れた家や土地を奪われたり、暴力を振るわれたりなど、過酷な扱いを受けてきた人にとっては、法律だから、一夜の内に態度を変えろと言われても無理な話です。そうしたいと願っても、昔からの偏見や、心に深く根ざした怒りや憎しみは、そう簡単に取り除けるものではありません。

でも、解決策はあるはずです。それは、愛です!

賢人として名高い昔のソロモン王は、「憎しみは、争いを起こし、愛はすべてのとがをおおう」と言いました。(箴言10章12節) 誰かを憎んでいれば、おのずと不和や争いが起こるでしょう。でもその人を愛しているなら、相手の過ちを見逃し、受け入れ、ゆるすことができます。

それはあくまでも理想にすぎないと言う人もいるかもしれません。深く根付いた憎しみや恐れや不信感を、さっと捨てられる人は存在するのでしょうか? たいていの人には、不可能とさえ思えることでしょう。

でも、希望はあります。人間の力には限界がありますが、過去に何が起こったとしても、相手を心から愛し、理解し、受け入れることができるのです。そのような愛は、神だけが与えることができます。聖書には、「神は愛である」(ヨハネの第一の手紙4章8節)とあります。神は、宇宙を、そして私たちを創造された全知全能の愛の霊であり、究極の愛の源です。

神は、ご自身の息子であるイエス・キリストをこの世に送られました。イエスは身をもって真の愛を人々に教えました。人間の苦悩や悲しみを自ら経験し、人々を深く憐れんだのでした。そう、イエスは私たちと同じ人間になられたのです。そして人々の病んだ体をいやし、むなしい心を満たしたのです。

イエスが言われた戒めはたった一つ、「愛しなさい」でした。こう言われたのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。」「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」(マタイによる福音書22章37節から40節を参照)

ある時、この言葉を聞いた偽善的な宗教家が、イエスを試そうとして、「私の隣人とは誰のことなのか?」と尋ねました。するとイエスは、有名な「良きサマリヤ人」の話をされました。強盗に襲われて重傷を負ったまま倒れていた人を、二人の人がそれぞれ見て見ぬふりをして通り過ぎた後で、当時軽べつされていたサマリヤ人の旅人がていねいに傷の手当をし、宿屋まで連れて行く話です。イエスはこの話を通して、隣人とは、国籍や人種、宗教や文化に関係なく、誰でも助けを必要としている人であることを教えられたのです。(ルカによる福音書10章25節から37節)

隣人を愛し、私たちもこの世界に平和をもたらすことに貢献するには、何をしたらよいでしょうか。それには、「平和の君」であるイエスを心に受け入れ、他の人への愛をくださいとお願いすればよいのです。そうすれば、心の内に住まわれる神の愛が、人間の力ではとうていできないこと、つまり自分を愛すると同じように、他の人も心から愛する力を与えてくれます。

聖書には、「イエス・キリストは私たちの平和であって、二つのもの(人種の異なる人々)を一つにし、敵意という隔(へだ)ての中垣を取り除いた」(エペソ人への手紙2章14節)と書かれています。神の奇跡的な愛こそが、真の平和と調和と相互の尊重を生み出すのです。

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16章7節) だから神が心の中にいるなら、私たちも、その人の外見や肌の色にこだわるのではなく、その心を見ることができます。そうして、一人一人が、神が造られたかけがえのない存在であることを知るのです。

偏見、恐れ、憎しみも、神のすばらしい愛が洗い清めることができます! 神が自分を愛していて、間違いもゆるして下さったのだと知ると、他の人を愛し、ゆるすのがずっと楽になります。そうすれば、「すべての恨み、いきどおり、怒り、また、いっさいの悪意を捨て去り」、「互いに情け深く、憐れみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合う」ことができます。(エペソ人への手紙4章31節と32節、欽定訳)

イエス・キリストに心を開くなら、イエスは奇跡を起こし、人への憎しみや怒りからあなたを解放することができます。「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなったのである。」(コリント人への第二の手紙5章17節)
誰もが肌の色や人種の違いを気にしなくなるなら、どんなにすばらしい世界になることでしょう。違う国民、人種、民族の人を見ても、目に映るのは愛だけになるなら!

イエス・キリストにお願いすれば、そうなります。「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテヤ人への手紙3章28節)

あなたもそんな愛がほしいですか。それなら、求めるだけでいいのです! 「神は愛」です。神は、あなたのために命を捧げるようにとイエスをつかわしたほど、あなたのことを愛しています。「神はそのひとり子[イエス]を賜(たま)わったほどにこの世[私たちみんな]を愛して下さった。それは御子[イエス]を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)

イエスは、あなたのあやまちや罪をすべてゆるし、永遠の命を与えてくれます。そのためには、ただイエスに心の中に入って下さるよう、お願いすればいいのです。どうぞ、この祈りを祈ってイエスを受け入れて下さい。

「イエスさま、私のあやまちや思いやりのない行為をゆるして下さい。今、心のとびらを開きます。私の心に入って、永遠の命を与えて下さい。私の心をあなたの愛で満たし、どんな人にも、広い心をもって、あたたかく接することができるよう助けて下さい。アーメン。」

「大いなる力と栄光の内に」イエスが再臨し、神の御国を地上にうち立てる時が近い、と聖書に書かれています。「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国」(黙示録11章15節)となる時、差別や弾圧をする国や政府はなくなります。

その時には、人種や民族の壁はすべて取り除かれ、世界中の平和を愛する人々が、真に調和の内に暮らすようになるでしょう。「諸民、諸族、諸国語の者を彼[イエス]に仕えさせた。彼の主権は永遠の主権である。…国は国に向かって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」(ダニエル書7章14節、イザヤ書2章4節参照)

でも、それまで待たなくともよいのです。たった今でも、神からのすばらしい安らぎと愛を心にもてるのですから。今、イエスを受け入れて、イエスの愛を他の人たちと分かち合うために、あなたにできることを始めましょう。