楽しくやろう!

デービッド・ブラント・バーグ

ある貧しい若者がいた。もしかしたら、食事を恵んでもらえるのではないかと期待しながら、金持ちの家に行き、前庭で四つんばいになって芝生を食べる振りをした。どんなに空腹か訴えていたのだ。さて、玄関に出てきた夫人は、若者を見て言った。「まあ、かわいそうに。裏庭の方にまわるといいわ。そっちの方が芝生がずっと長いから。」 一部の金持ちの気前の良さとは、こんなものである!

人は誰でも、ユーモアのセンスを持っていなくてはいけない。聖書には「心の楽しみは良い薬である。」(箴言17:22)とある。神は人を創造された時、ユーモアのセンスと面白いことを笑う能力を備えて下さった。だから、神ご自身もユーモアのセンスを持った方に違いない。神が造られたものや人々を見てもそう思うし、人がおかしな状況に入り込んでしまうのを神が許されるのを見ると、なおさらそう思う。ユーモアのセンスとは、深刻な状況にあっても、おかしな面を見つける能力、とても笑えない状況にあっても笑える能力だと、誰かが言っていた。

そう言えば、ずっと昔、説教壇に立つ時には必ず、フロックコートを着ていた牧師がいたのを思い出した。フロックコートは今のタキシードに似ている。この牧師はズボンの折り目には特に神経質で、自分が話す番になるのを牧師室で待つ間は、ズボンをはいたまま座るようなことはせず、脱いでかけておいた。さて、ある日曜の朝、ちょうど子供のための日曜学校が終わった頃に、牧師は、子供達に伝えなければならないとても重要な知らせがあることを思い出した。そこで急いで立ち上がると、牧師室からあたふたと出てきた。「子供達、ちょっと待って。とても大事なお知らせがあるんだ。」と叫びながら。

子供達は一斉にふり返り、説教壇に立っている牧師を見た。その途端、誰もがあっけにとられて沈黙したが、次の瞬間には、どっと笑い声が起こった。説教壇の手すりの向こう側で、知らせの紙を持って立っていた牧師の、下着とむき出しのすねがまる見えだったからだ。日曜学校の生徒達がすぐれたユーモアのセンスを持っていたことは明らかだ。

しかしながら、牧師はそうではなかった。下を見て、皆が何を笑ってるのかを悟ると、気も失わんばかりだった。やっとの思いで牧師室に戻ると、へなへなと倒れ込んでしまった。この牧師には、ズボンをはき忘れて説教壇に出るという、自分のおかしな失敗を笑い飛ばす事ができなかったのだ。

きまじめすぎて、物事をあまりにも深刻に受け止めてしまうのは禁物だ。自分自身については特にそうだ。自分に大笑いし、自分のくだらない間違いを笑い飛ばせる能力はとても貴重で、謙虚であり続ける助けになる。しかし、自分の間違いを笑い飛ばすことができず、他の人の間違いをユーモアのセンスをもって受けとめられない人は、プライドが高すぎるか、人生観が厳しすぎるのである。神は私達に、人生を楽しむものとして与えられ、又、楽しむための能力や様々な感覚器官や環境を与えられた。マルチン・ルターが言っているように、人生の第一の目的は、「神を愛し、神を永遠に楽しむこと」である。そして、私はそれに、「他の人達もそれをするよう、神がすべての人に与えたがっておられる神の愛や、幸福な人生について語ること」をつけ加えよう。

殉教者達でさえ、悲しみに溺れながらではなく、歌い、大声で神を賛美しながら死んでいった。クリスチャンである私達は、幸せな人々でなければならない。何故ならこの世界の誰よりも幸せになる条件を備えているからだ。私達には、イエスの幸福な愛がある。イエスは私達の全ての重荷や心配を、私達の代わりに負って下さり、全ての悲しみをやわらげて下さる。イエスに仕えることについても、イエスは、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」、また、「背く者の道はけわしい」と言われた。(マタイ11:28-30、箴言13:15 [欽定訳]、詩篇144:15参照。「くびき」は、牛の首につけ、すきや車を引かせるための道具で、重荷や苦役の象徴)

イエスが与えられたくびきがあまりにもきついか、イエスのための奉仕という重荷があまりにも重すぎて耐えられないと思うなら、イエスに従わないという罪を犯しているからかもしれない。つまり、「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいをいっさい神にゆだねるがよい。」(第一ペテロ5:7)や「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。」(詩篇55:22)という聖句を実行していないからだろう。やたらと重荷を負いすぎて、自分で無理にやろうとしているのかもしれない。神に任せ、神にゆだねよ! イエスにしてもらえばよい。がむしゃらにやろうとするのではなく、自分を通して主にやってもらうのだ。あなたは、神がその力と愛、恵みと強さを通して物事を行われることに任せないで、自分でやろうとあくせくしているのかもしれない。私達は「クリスチャン努力協会」ではなく、「主に任せる者」の集まりである! 主イエスなしには、私達はつまらぬ存在で、自分では何一つ出来ないからだ。

だから、あくせくするのをやめよ。神に任せ、神にゆだねよ! 気楽にやろう! 自分の力に頼って、あくせく努力するのをやめよ。自分のことをあまりにも深刻に考えるのもやめよう! その代わりに、主をほめたたえよ。自分自身の弱さを笑い飛ばし、主のために何かをし、何かを成し遂げようとするには、自分があまりにも無能なことに大笑いしなさい。少しでも何かが成し遂げられるとすれば、それはただ自分の内にあって働いて下さる主のおかげだとわかっているのだから。

この私達を使うことが出来るなら、神には誰だって使うことが出来る。なぜなら、私達はどうしようもない存在だからだ。まじめすぎて、自分のことを深刻に考えすぎたりせず、自分の馬鹿さ加減に大笑いすべきだ。主はバラムのロバでさえ使うことが出来たのだから、私達を使うことだって出来るはずだ。(民数記22:23-31参照) ハレルヤ! 神は何とユーモアのセンスにあふれた方だろうか。このことがわかれば、誰でも元気が出てくるだろう。だから、自分自身に大笑いし、神が自分を通して全てのことをして下さっているのだと認めよう。私は昔、キリスト教が禁止されていたチベットで25年間福音を宣べ伝えていた老宣教師と会ったことがある。しかもその内の4年間は共産政権下だったのだ。ある夜、夕食の後の皿洗いを手伝ってくれているこの宣教師を見て、私は彼がとても謙虚で物腰柔らかな、しかもきわめて陽気な人物であることに驚いた。私からすれば、とても偉大な人物で、素晴らしい仕事を成し遂げ、有名になって当然なだけの偉業をなしたのに、彼はそこで私と謙虚に皿洗いをしていたのだ。

その頃、宣教師を志していた私は、彼にこう尋ねた。「宣教師に欠かせない最も大切な条件とは何でしょうか。」 彼なら、誰よりも答をよく知っているはずだと思ったからだ。長年に渡る宣教師としての経験と、それから培(つちか)われたすぐれた知恵を備えているから、さぞや、深遠で厳粛な答が返ってくるのを私は期待していた。ところが、意外な答が返ってきたのだ。皿洗いしていた手を休めると、微笑みながら、彼はこう言った。「ユーモアのセンスですよ! 泣きたい時にでも笑えることですよ!」 その答の単純さに私は驚いた。それから、この宣教師は、宣教活動の最中にしばしば非常に恐ろしい状況に陥り、あまりの緊張に気も狂わんばかりになった時、愉快に笑うことで、危うく命拾いし、正気も保てたと説明してくれた。主が何とか世話をして下さるとわかっていれば、どれほど状況が不可能、あるいは救いようがないように思えても、微笑み、笑うゆとりが持てる。神がきっと奇跡を行なって下さると知っているからだ。

私が子供の頃には、家族そろって、主への奉仕のために各地を旅行していた。あり金が最後の1セントになってしまったことがよくあったが、そんな時には、たいそうわくわくしたものだ。神が奇跡を行なって下さると分かっていたからだ。今か今かと待ちきれなかったくらいだ。神はどうやって必要を満たして下さるのだろうか、私達を救うために今回は、今までと違ったどんな変わったことをして下さるのだろうかと思いめぐらしながら、喜びと期待に胸をふくらませ、あちらこちら見渡したものだった! ひどくおかしな事が起こったこともあった。古い財布や引き出しの底からお札が見つかったり、お金が道ばたに落ちていたり、あるいは昔の友人に会って夕食に招待され、一晩泊めてもらったりしたのだから。

子供の頃に、朝食の牛乳を1リットル買うのに10セント必要だったけれども、一文無しだった事もあった。その時、母は子供達に言った。「心配しないで。主が何とかして下さるから。さあ、朝ご飯の前に散歩に行きましょう。」 そして私達が街角に立っていた時、ぴかぴかの10セント硬貨が文字どおり空から落ちてきて、歩道でチャリンと音を立てた! どうしてそこに落ちたのか、どこから落ちてきたのか、誰が落としたのか、全く見当がつかなかった。神ご自身が落としたとしか考えられなかった! まるで冗談みたいな話だ。空からお金が落ちてくるなんて! 神以外に、誰がこんなやり方で物事をなされるだろうか。しかし、神は普通とは違った方法で物事をするのを好まれる。しかも、私達にとってはあまりにも馬鹿げていたり、風変わりだったり、おかしく思えたり、不可能としか思えなかったり、まるでこっけいに見える方法を使われることがある。それは神が、ご自身の力を示すためである。今までの慣習や伝統、習慣、あるいはどんなに不可能と思えることにも束縛されないということを明らかにしておられるのだ。

だから自分に大笑いし、自分についておかしな冗談を言えるようにしよう。神が造られたものの中でも、自分ほどおかしな人間はいないし、どうしようもないほどこっけいな存在はないと。このことを心にとめておけば、謙虚さを失わないでいられる! ユーモアこそ、高ぶらない助けだ! 独善的になったり、あまりにもきまじめで深刻になりすぎないためには、自分自身についておかしな冗談を言って自分がどれほど滑稽な存在かを悟ること、それが何よりのクスリだ。

人は誰でも、大笑いすることが必要だ。ユーモアのセンスを持とう。それによって、謙虚な心を忘れないようにするのだ。自分に大笑いしよう。しかし、すべての事には時があるので、度を超さないように。笑うに時があり、泣くに時がある。すべてのことには時があるのだ。(伝道の書3:1-4参照) しかし、涙を流すようなことがあっても、微笑みを忘れないようにしよう。陽光は、雨の中でかえって輝きを増すものだ。暗く、憂うつになるのはやめて、もっと太陽の輝きと笑いを取り入れよう。世間の人達は、地獄のような生活を十分味わっている。だから、もう少し天国のような生活を与えてあげよう。エレン・ウィーラー・ウィルコックスはこう書いた。「笑いなさい。そうすれば、まわりの皆も共に笑うでしょう。泣きなさい。でも泣くなら一人ぼっち。」

この世界は、地獄のような生活を十分味わっている。だからもう少し天国を見せてあげよう。つまり、「永遠に続く愛と笑顔、それに平和」、そして今日、自由になれることを。ハレルヤ! 主をほめたたえよ。「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」(マタイ5:12)

だから、楽しくやろう。年取ったラバのジェニーのように、へそ曲がりの強情者になってはいけない。どうしてかって? ジョニー少年の祖父は、あまりにも宗教熱心で、かなり厳格だったので、かわいそうなジョニーは日曜日に遊ぶことを許してもらえなかった。祖父はいつも、英語で言う「ロング・フェイス」、つまり、陰うつそうな顔をしていた。ある日曜日、ジョニーは、「今日はあれをしてはだめだ。これをしてはだめだ。」と祖父から言われ続けた後、沈んだ気持ちで納屋の所に来ると、ラバのジェニーの長い顔をなでながら、こう言った。「ジェニー、おまえもきっとものすごく信心深いんだね。おじいさんみたいに、とっても長い顔(ロング・フェイス)をしているもの。」 宗教とはそういう陰うつなものだと考えている人達もいるのだ! 私達の宗教がそんなふうにならないように!

聖書には、「主(神)を喜ぶことはあなたがたの力です。」と書かれています。(ネヘミヤ8:10) あなたは、心の重荷から解放されて自由になり、イエス・キリストによる救いの喜びを持ちたいと思いますか。それなら、どうぞ次の祈りを祈って下さい。

イエス様、私の罪や過ちのために死んで下さって、ありがとう。私の心の中に入って下さい。そして、永遠の命を与えて下さい。あなたの愛と喜びを他の人にも伝えられるよう、私を聖霊で満たして下さい。アーメン。