トミーの物語

デービッド・ブラント・バーグ

書き記された言葉の力を過小評価してはならない! それがなかったら、私達は一体どうなることだろう? 旧約聖書の最初にあるモーセの五書も、神の御言葉に記された歴史書も、ダビデの詩篇も、旧約、新約聖書両方に記録された預言も、福音書も、使徒行伝もなかったとしたら? 使徒達による書簡がなければ、どうだっただろうか? それらは思慮深い使徒達、筆記者、秘書、助け手、弟子、信者達によって、私達のために、新約聖書の中にそっくりおさめられている。遠い昔から現在に至るまで伝えられ、あらゆる時代を通じて、何百万もの神の子供達の、永遠の支えとなってきた書簡である!

だが、これらの書が幾世代にも渡ってそれほども重要な役割を果たすなど、その記録にかかわった誰一人として予想もしていなかったことだろう! 使徒パウロも、書簡を書いていた時には、その一つでさえ、これほど大きな影響を及ぼすようになるとは予想だにしていなかったに違いない! それらはただ、友人や、知り合いの信者達、あるいは以前に教えを説いた信者達のグループにあてた、慰め、励まし、教義、訓戒、指導の手紙だったからである。そうした友人や信者達のグループの中には、パウロ自身が主に勝ち取った人々、彼が直接設立した教会、また、それらの人々の伝道活動によってさらに勝ち取られた新しい信者達やその他の教会も含まれていた。福音の爆発的な連鎖反応である!

だから書き記された言葉が果たす役割の大きさを見くびってはならない! この使徒達の書簡は約2千年の内に、印刷という手段を通して、膨大な量の複製がされた。神が人間にあてた愛の書である聖書がなければ、どうなっていただろうか? 御言葉(みことば)を通して、著者である神を知ることができるのは実に素晴らしい。「信仰は神の言葉を聞き、読むことから来る」からである。(ローマ10章17節参照)。そして、友人や家族、または興味をもっている人達への、あなたの言葉や証言、伝道、手紙が神の言葉を含んでいるなら、その人達の心にも信仰が芽生える!

子供の頃、私は、トミーという少年についての実話を聞いたことがある。トミーは体が不自由な新聞売りの少年だった。大都市の騒がしい通りに面したみすぼらしいアパートの3階に住み、弱々しい体で、窓際の粗末なベッドに一日中横たわっていた。ある日トミーは、友達の新聞売りの少年に、あらゆる所に行って良い事をした人についての本をもってきてほしいと頼んだ! この少年は体の不自由な友達のために、題名もわからぬ本を求めて町中を探しまわった。そしてついにある本屋の主人が、それは聖書のことで、トミーが話していたのはイエスの生涯のことだと気づいたのだった! 

トミーの友達は、ポケットからありったけの小銭を差しだした。わずかな額しかなかったが、店主は親切にも新約聖書を渡したのだった。そこで友達は一目散に、トミーのいるアパートの3階へと向かった!

二人で一緒に聖書を読み始めると、トミーは聖書に書かれている言葉によって素晴らしく救われた。そしてその本の主人公、イエスのように良い事をしたいと願ったのだった。しかし、体が不自由で、一緒に住んでいる年老いた叔母の助けがないなら、自分でアパートの部屋から出ることもできない! だから、トミーは祈り、神に助けを求めた。すると、神はある計画を示されたのだった!

トミーは、小さな紙切れにたどたどしい字で、人々を励ます聖書の言葉を書くと、それを3階の窓から、大勢の人が行き交う下の通りに落とした! 通行人はひらひらと何かが落ちるのを見、何だろうと思って拾い上げ、あらゆる所に行って良い事をした方、イエス・キリストの言葉を読んだのだった! この少年の、聖書を使った単純な伝道によって、多くの人が助けられ、励まされ、慰められ、救われさえした。

ある日、裕福な実業家が、この小さな聖句の紙の一つを読んで素晴らしく救われた。イエスという救い主を見いだした後、彼は自分を主に導いてくれた紙を見つけた場所に戻ってきた。どうしてその紙がそこにあったのかを知ろうとしたのである! 突然、この実業家は上からまた小さな紙きれが落ちて来るのに気がついた。そこへ通りかかった疲れきった表情の貧しい老婆が、痛む腰を何とかかがめて紙を拾い、読み始めた。すると、表情が段々明るくなり、すっかり元気になって歩いて行ったのだ!

実業家はその場にじっと立って、注意深く上を見上げながら、どこから紙が落ちてくるのかつきとめようとした! 長いこと待った。体の不自由なトミーにとって、小さな紙切れに一つの聖句を書くのさえ骨が折れるし、時間がかかった! 突然、その紳士の目は一つの窓に釘付けになった。そこから細いやせた手が伸びて、小さな紙切れを落としたのだ。自分に新しい人生を与えてくれたのと同じ紙切れだ! その人はその窓の場所をしっかり頭に入れると、みすぼらしいアパートの階段を駆け上がり、ついに通りの小さな宣教師、トミー少年がいる小さな薄汚いアパートの一室を捜しあてたのだった!

その人はすぐにトミーと友達になって、できる限りの援助をし、治療も受けさせてやった。そしてある日、トミーに、郊外にある自分の豪邸で暮らさないかと尋ねたのだった。

ところが、驚いたことにトミーはこう答えたのだ。「僕の友達に聞いてみないとわかりません。」 その友達とはイエスのことである!

翌日、その紳士は返事を待ちかねた様子で、再び訪れた。不思議なことに、トミーはおかしな質問をしてきた。「あなたの家はどこにあるんでしたっけ?」

「ああ、静かな田舎にあるんだよ。とても大きくてきれいな屋敷だ。君は自分だけの立派な部屋を持てるんだ。そして召使が君の世話をし、おいしい食事も、ふわふわのベッドも、何でも揃っていて、ほしいものは全て手に入るよ。それに私も妻も君を心から愛し、わが子のように世話をするつもりだ。」

ためらいながらも、トミーはまた尋ねた。「誰か僕の部屋の窓の下を通る人はいますか?」 意外な質問に、多少まごつきながらも事業家は言った。「そうだなあ、時折、召使か庭師が通るくらいだ! トミー、わからないのかい。私の屋敷はとても立派で、町の騒音や人混みから遠く離れた郊外にあるんだよ! 静かだし、休んだり、本を読んだり、何でもしたい事ができる。ごみごみして、空気も汚れていて、騒音や人混みばかりの都会とは別世界だよ。」

長い沈黙があった。トミーはじっと考えていたのだ。この新しい友人を傷つけたくはなかったので、悲しげに見えた。しかしついに、目にいっぱい涙をためながら、静かに、しかし、きっぱりと言ったのだった。「ごめんなさい。僕、窓の下に人が通らない場所には、絶対住むことができないんです。」

子供の頃に母から聞いたこの小さな実話は、私の人生に大きな影響を与えたと信じている。聞いた瞬間から、自分は神の恵みによって、神の愛を伝えるという使命の「窓の下」に誰も通らないような場所には絶対住むまいと私は決意したからだ! ちょうどトミーが、「窓の下に人が通らない場所には、絶対住むことができないんです!」と言ったように。あなたはどうだろうか?

あらゆる所に行って、ご自分の人生の窓の下を通る人に良い事をされた方(イエス)に出会っておきながら、誰も私の窓の下を通らず、私が受けたものと同じものを受け取ることができない場所にまた住むなど、そんな利己的な生活がどうして送れようか? 「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。」(マタイ10章8節)。そして「多く与えられた者からは多く求められる。」(ルカ12章48節)。

あなたは人々が、自分の人生の窓の下を通れるような場所に住んでいるだろうか? そこを通る人々に神の言葉を与えているだろうか? いつでも誰かがあなたの窓の下を通っている! その人達は、必要としているものを受け取るだろうか?

トミーの物語は、素朴で、無力な、一人ぼっちの少年の実話である。はたから見れば、彼には主への奉仕など到底無理のようで、できない口実も十分揃っていた。人助けするどころか、人から助けてもらわなくてはいけない立場にいるように見えた! しかし、キリストの愛が道を開いてくれたのだ!

たった今、誰かがあなたの窓の下を歩いている! あなたの愛は、その人達を助ける方法を見いだしただろうか? 彼らを助ける方法を、神の愛は示してくれただろうか? 自分がどんな状態にあっても、どんな障害があっても、もし助けたいと望むなら、神は方法を示して下さる。神にも窓があるからだ。私達が従い、人生の窓を他の人に向かって大きく開くなら、神も「天の窓を開いて、あふるる恵みをあなたがたに注」がれる。(マラキ3章10節)。主よ、あなたをほめたたえます!

自分の人生の窓を通る人々に、忠実に神の愛を伝えているだろうか? 御言葉の窓を通して、神の羊を養い、緑の草やきれいな水、神の愛の光を与えているだろうか? 神の羊をなおざりにはできない! 彼らが必要とするものを与えなくてはならないのだ! さて、その方法は? 今以上にできる事は何だろうか? もっと多くを注ぎ出すこと! より多くを与えることだ! じっと止まっていることはできない! 主の子供達にとって、同じ状態にとどまっていることはありえない! 前進しているか、後退しているかのどちらかだ! だから進み続けなければならない! これまで以上に注ぎ出さなければならないのだ! なぜなら、「わたしたちは、わたしをつかわされたかた(神)のわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、誰も働けなくなる。」(ヨハネ9章4節)。「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。」(エペソ5章16節)。いっそう注ぎ出し、神の御言葉を証しするなら、神ご自身は人が想像もしなかったような素晴らしい事をして下さるだろう!

利己的にも与えずにいるなら、あなたの働きは無に帰してしまう。「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」(箴言11章24と25節)。私達がどんなに与えても、神はそれ以上に私達に与えて下さる!

有名な宣教師デービッド・リビングストーンは、英国での裕福な暮らしを拒み、アフリカのジャングルを開拓して、そこでひざまずき、祈りながら死んだ。その彼がこう言った。「私は犠牲など払ったことがない!」 デービッド・リビングストーンは、自分が与える以上に、神が常に与え返して下さることを発見したのだった。その命を捧げたものの、彼は永遠の命と、永遠に救われた何千何万もの人々の魂の配当を受ける! 神は常により多くを与え返して下さるではないか?

しかし、それには何らかの代価がかかる! 昔のダビデ王は言った。「私は費用(代価)をかけずに…主に捧げることはしません!」(サムエル記下24章24節)。だから、あなたは何かを与え、注ぎ出さなくてはならない。そして、窓のある所に住み、忠実に主の命令を果たさなくてはならないのだ! 何かをつぎ込まずして、益を得る事はない! 得るためには与え、受けるためには注ぎ、刈り取る為には蒔き、利益を得る為には投資し、生きる為には命を捧げ、よみがえる為には埋められなくてはならない!

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もしあなたが、この「あらゆる所へ出て行って、良い事をなさった方」、イエスをまだ受け入れておらず、神の御子(みこ)イエス・キリストを通して、神の愛を知りたいなら、たった今、イエスを心の中に受け入れる事ができます! それによって神の愛と救いが得られるだけでなく、神の愛の聖霊であふれるばかりに満たされるので、神の愛を必要としている人々にとって祝福となれるのです。イエスはこう言われました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」(ヨハネ7章38節)

あなたも、たった今、心にイエスを受け入れ、愛と幸福の人生を始めることができます。ただこの祈りを祈って下さい。

「イエス様、私の罪や過ちをゆるし、永遠の命を与えて下さい。そしてあなたの聖霊で私を満たし、トミーのように私の人生の窓の下を通る人々を助ける方法を見つけるように助けて下さい。イエスの御名(みな)によって祈ります。アーメン。」

この祈りを心から祈り、信じたなら、あなたの求めた通りになったのです。イエスはこう約束されました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(黙示録3章20節)